政治を作るのも、支えるのも、「教育」。〜中学受験勉強の仕方を誤ると、政治に無関心な大人になる〜

皆様、こんにちは。


 初対面の人や、あまり親しくない人の前では避けるべき話題には「宗教の話」や「政治の話」も挙げられます。
 ですので、政治に直接関わる仕事をしているわけでもなく、
というよりむしろ、「教育」というニュートラルな視点が重要な仕事をしている私は、
普段なら、人前で政治にまつわる見解を述べたり、そこへつながる言葉を積極的に発したりすることは、極力慎むようにと、
これまでは心掛けてきました。
 しかし、この非常事態において、
「教育が成っていないと、健全な政治も成り立たない」と
思うことが少なくないので、
今日はその視点から、思いの丈を綴ってみます。



 直近の世論調査で、内閣支持率の低下が報じられていましたが、それでもまだ、「支持」と「不支持」は拮抗している状態です。
 そして、私が気になるのは、
「支持」している人たちの「理由」に「消極的」なものが目立つことです。
 たとえば「他の内閣より良さそうだから」といったもの。

 この理由には、あえて厳しく言うなら、
妥協と無責任、無関心、他人に丸投げ、といったものが見え隠れしているように、私は感じます。

 国や自治体のリーダーのような政治家といえども「完成された人間」ではなく、ひとえに国民の代表。
 よって、選ぶ側も、一方的に理想だけを求めるのではなく、「国民が政治家を育てる」という意識も必要ではないかと私は考えます。

 「育てる」というのは、決して「上から目線」の言葉ではなく、
特にここでは「みんなで作る、築く」という極めて民主的な意味合いを込めて、私は使っています。
 政治は、みんなのもの。
 永田町や霞が関だけで動いているのではなく、
この国における、自分の日々の生活こそが政治なのだ、というところに思い及ぶか、どうか。

 そして、そこにつながる「国民としての意識」を育てることは、
「青少年の教育」すなわち「小・中・高校生の教育に携わる者の重要な責務」であると。
 教科の授業一つを実施するにしても、そのような思考回路を持つ教師・講師と、そうではない者とでは、自然と随所に違いが生まれるし、
子どもたちは、その違いを、そのような大人の理屈ではなくとも、肌で感じ、吸収し、育っていくのだと私は痛感します。

 国民、とりわけ若年層の「政治への無関心」には「メディアの責任」が関与しているという説もありますし、私も賛成意見ですが、
同時に「青少年の教育の浅さ」も大きく関与していると考えざるを得ません。

 先々「政治に関心のある若者」になるための「基礎教育」は「中学受験勉強指導」のなかでも十分行えますし、絶対に行わなければならないと私は考えます。
 なぜなら、中学受験勉強によって「その子の一生の思考回路」は莫大な影響を受けますし、
中学受験をする子どもたちのなかには、将来の日本の「意思決定層」になっていく子が多く含まれているからです。

 ということは逆に、遡ってみれば、
今、政治に無関心な若者たちが多いのだとすると、
その上の世代が、必要な「教育」を子どもたちにしなかったことこそが元凶であるとも言えるでしょう。

 ある意味、
決断力が無いと批判される政治家よりも、その政治家に甘い汁を吸わせて野放しにしている「無関心な若者たち」のほうが、さらに質(たち)が悪い。
 さらには、
詰め込み教育」で「目先の受験に合格すること」だけに子どもたちを追いまくり、他人への関心や思いやり、礼節や文化への興味を育てることなく子どもたちと交わってきた「指導者」という名の大人たちのほうが、
もっともっと質が悪い、と。

 文化を育て、守るにも、政治の力は必要ですから。

 東京都がここで、アーティストの支援のために資金を提供するというのは、画期的だと感じます。
 この国は、ヨーロッパに比べると、芸術やアーティスティックな文化に対して恐ろしく冷たいと、私は前々から強く思っていますので。
 芸術や文化を重んじることは、「国」への関心を高めることに直結しますから、必然的に政治への心の目も開くことにつながると考えられます。

 どんな形であれ「青少年の教育」に携わっている、という人にとって、このコロナ禍は、
それらのことを噛み締め、深く省みる大変良い機会のはずです。
 もちろん、私にとっても。


 政治は私たちの日常そのものであり、文化でもある。
 この思いを今後、中学受験生への授業にも、料飲のプロとしての仕事にも活かすために、
この「Stay Home」な時間を有意義に使っていこうと、意を新たにしています。