中学受験の「オリンピック」(後編)

 〔前編のつづき〕

 「教科の勉強や学歴がすべてではない。それは、一人の人間が持つ個性の一つに過ぎない」__この「思想」を我がものとする過程で私を開眼させてくれた学びの一つは、とあるフランス語の言い回しでした。

 誰かに親切にしてもらい、日本語なら「ありがとう、ご親切に」というところで、フランス語では一般的に、

 Merci, c'est gentil.
 (メルシー, セ ジャンティー.)

と言います。
 「c'est」というのは、英語の「it's」とイコールで、日本語に直訳すると「それは」です。
 そして、相手が親切な行為をしてくれたことに対してお礼を述べるこの場面で「c'est」が指し示しているのは、相手がしてくれた「その行為は」です。

 「ここでもし、主語を『その行為は』ではなく『あなたは』としてしまったら、相手の『人そのもの』にまで評価をしていることになって相手に失礼だから、『c'est』を使うのは、礼儀だ」__日本人の通訳・翻訳者としてすごく実績をお持ちで、指導者としても著名なフランス語の先生からそのように教わったとき、私はちょっと目から鱗が落ちる思いでした。「個」を重んじるフランス人の文化や思想を垣間見ることのできる、小さな「深イイ話」だったのです。

 フランスの社会で日本の社会と異なることの一つとして、「職人」系の仕事に就いている人々の社会的地位が日本よりも高い、ということが挙げられますが、そのことと「個」人や「個」性を重んじ、尊重する思想が根差していることには、密接な関係があるように私には思われます。

 「ありがとう、ご親切に」という日本語の文には、主語がありません。日本語は主語がなくても文が作れる言語であるというのはよく言われる話ですが、「主語がない」にも大きく分けて二つのパターンがあると考えられます。
 一つめは、主語がなくても意図していることが正しく通じるので「主語を省略する」パターン。そして、もう一つは、主語が指す範囲がもともとあいまいだったり、はっきりさせることが難しかったり、または、はっきりさせたくないという場合に「主語をぼやかす」パターン。
 「ありがとう、ご親切に」という文は、この二つめのパターンに当てはまると私は考えます。

 文化が言葉を生み出し、言葉が思想を形成することを鑑みると、学歴至上主義社会からの脱却のために端緒を開くこともできるのではないでしょうか。
 はっきりさせない言葉遣いは、時として日本人ならではの優しさの表れであり、また時には、あえて意味合いに複数の選択肢や幅をもたせる奥ゆかしさにもなり得ます。しかし、グローバル化が進む昨今、先進国である日本に望まれる立ち位置においては、さまさざまな「個」を生かせるだけの、国民の度量、すなわち「器」も問われてくると思われます。
 ましてや、「オリンピック」という特殊な舞台であれば、なおさらです。究極の個性、特性が求められるのですから。

 現状を見極めて事実を伝えるのは、指導者の仕事です。
 異常なまでに厳しい最難関中学受験、「オリンピック」だからこそ、指導者には覚悟のみならず、深い思想や哲学がなければ、本当に子どもを導くことなど、とても、できません。
 もしも、途中で志望校を下げなければならない事態が起こったとしても、歩んできた道と、目の前に広がる景色が、色を失ってその子の目に映ることのないよう、導き続ける。それは実際、簡単なことではありませんが、そうして難題に立ち向かうことも、「プロ」の指導者の仕事です。

 中学受験の場合、志望校を下げる話は保護者の方とすることが多いのですが、このような場で、ただひたすら恥ずかしそうに、申し訳なさそうに、ためらいながら話す塾講師がいます。一見、気を使って細心の注意を払っているようにも見えますが、腫れ物に触るかのように、奥歯に物が挟まったような言い方をする、その立ち居振舞いこそ、子どもに対して無礼極まりないように、私は感じます。

 その立ち居振舞いの陰では、教科の成績に対する評価が、一人の「人間」としてのその子にべったりとくっついて、「志望校を下げる」ことが「その子の価値を下げる」こととイコールになっているのではないでしょうか。だからこそ、まるでこの世の終焉を宣告するかのごとく、的外れな悲壮感をまとってしまう。前近代的な学歴偏重、学歴至上主義の遺物がなせる業だと思われてなりません。

 悔しくもあり、残念なことでこそあれ、一つの道を諦めることは、新たな可能性への第一歩でもあります。

 水泳選手としてオリンピックに憧れ、金メダルを取ることを夢見て、6年生の11月ごろまでスイミングクラブにも通いながら受験勉強をしていた私自身は、最難関中学受験という「予選」を勝ち抜いて、中学受験の「オリンピック」に出場することができました。そうして入学した中学校では、唯一無二の経験をたくさん積むことができましたが、その一方で、水泳選手としてオリンピックに出ることは叶わなかったのです。

 それでも、中学校3年間、水泳部に所属して、部活や校内の水泳大会で活躍することができました。
 それは、今でも色褪せることがなく、自分の胸の中にある、素敵な思い出となっています。