中学受験の「オリンピック」(前編)

 「目標は、届く可能性のあるところに設定する」。私がこのことを体で学んだのは、おそらく小学生のころだったと思います。

 私は小学1年生のときから地元のスイミングクラブに通い、5年生になるのと同時に選手コースに上がって、週に何度も泳ぎながら東京都大会などにも出場していました。
 また、選手コースでは大会のほかにも毎月「記録会」があり、そこでは1ヶ月間の練習の成果をぶつけて一人ひとりが自己ベストタイムの更新に挑んでいました。

 「中期的な」目標というのは、各自にコーチから与えられていました。その目標タイムというのは、1ヶ月でクリアできるほど易しいものではなく、かといって1年かけなければ届かないほど難しくもなく、「何ヶ月か」で超えられる、超えたいタイムだったのです。
 そして、中期的な目標をクリアし続けると、その先の「長期的な大きい目標」に届く。これが、どこにいっても通用することを、私は大人になってから実感しました。

 中学受験の指導をする講師たちの中には、生徒の資質や現在の成績を省みず、やみくもに極めて高い目標を掲げて煽ろうとする講師もいれば、生徒の伸びしろをつぶすがごとく「そんな学校になんか行けないぞ」と頭ごなしに吐き捨てる講師もいます。
 ここで適切な成績向上計画、さらには進路指導をするためには、子どものやる気を引き出すという精神論にとどまらず、「効果的な目標の立て方」について体感を伴った理論をわきまえておくことが、指導者には必要と言えるでしょう。

 さらに、私がもっと重要だと考えるのは、「子ども(ひいてはご両親、ご家族)の希望が現実的な目標になり得ない」とき、どのように導いていくのか、ということです。

 中学受験は、「特殊な世界」です。とりわけ、「男女御三家」と呼ばれる中学校など、難関レベルの学校に合格するために必要な勉強は、小学校で取り組む学習内容とは完全に乖離した、別次元のものです。時として、「中学受験は、大学受験よりも大変」、「すべての受験の中で、一番大変なのが中学受験」という声があがるのは、そのような中学受験の特質的な要素に起因するとも言えます。
 私は昨年の秋まで大手進学塾に勤めていましたが、男女御三家最難関と目される開成・桜蔭に合格することは「中学受験のオリンピック」とさえ評されていました。言い得て妙だと、私も納得していたものです。

 ということは、そこは「オリンピック」に向いた資質や適性のある者だけが戦える場所であって、万人に開かれてはいないことを意味します。
 でも、それはあくまで、「教科の勉強」に限った話です。人間が持つさまざまな側面や能力のうち、たった一つの領域での話に過ぎません。

 だから、私は進路指導をするにあたって、もちろん言葉は選びますが、「志望校を下げる」必要があるときにはしっかりと、その必要性を伝えます。志望校を下げることは、一人の「人間」としてのその子を評価していることではないからです。
 この領域で「オリンピック」選手になれなくとも、ほかの領域でもっと才能を発揮できるかもしれない。そして何より、その子の人間性の素晴らしさは、ものさしで測れるものではない。
 「学歴がすべてではない」という信念があればこそ、厳しくも温かい進路指導が叶うのだと、私は考えています。

 〔後編につづく〕