桜梅塾「国語のコース講座」Webページ内一部リニューアル! ~【「中学受験は、何のためにするのか」2019-2020冬ver.】~

皆様、こんにちは。


 この度、桜梅塾の講座受付窓口としているストアカのサイトにおける、「国語のコース講座」ページ内で講座案内を一部リニューアルいたしました。

 お子様たちとともに、私も、桜梅塾も日々成長していくなかで、講座のWebページには時々手を加えていますが、

今回講座のWebページに新たに掲載した文章は、
こちらのブログに
【「中学受験は、何のためにするのか」2019-2020冬ver.】
として転載いたします。


 今から1年半以上前にこちらのブログで公開した記事、
「桜梅塾のお話 ~中学受験は、何のためにするのか~」(2018.5.12公開)は、
私としては特に深い思い入れがあって書いた記事ではなかったのですが、
ブログ内ではそれ以降、常に「注目記事」の上位にランクしています。
 しかし、あれから1年半、私もさまざまな経験を積み、
現在の考えや理念は、さらに進化したものへと変わっていますし、
皆様の関心の高いテーマであるなら、なおさら、
進化した「現在」のものをお伝えすることも必要と思い、
ここに転載して記事をアップする次第です。


 以下、今回リニューアルした講座案内からの転載です。
(転載元:「中学受験の国語 ~3・4・5年生 4回コース~ 『説明文・意見文』」講座ページ↓
https://www.street-academy.com/myclass/51932





★★★中学受験を目指す3〜5年生のお子様が、
学習の積み重ねにより
地に足のついた学力を養いながら、
人生で一度きりの少年期に
実りある月日、そして年月を生きていくことが
できるように。

この4回コースでは、「説明文・意見文」などの
説明的文章を中心に学びます。★★★


【『10歳の壁』に差し掛かる頃より
 自ら厳しい「闘い」に挑むのは、
 「より豊かに生きる」ため】

 「教育とは、『教わり育つ』こと」。
 自身が中学受験を経験した講師にしか分からない、
「『脳力』の成長」の機微があります。

 * * *

 ある日、授業中の出来事。
 国語の文章題で「指示語」の問題が出てきたときのことでした。

 「指示語の指す内容は、基本的には前にある」ということを私が確認しようとすると、
その子は「以前の塾の先生に『指示語の問題のときは、後を見なさい』って言われた」とあっさり即答したのです。

 そのときは、そこで立ち止まることが難しい状況でもあったので、私は、あえてその子の発言を否定したり根掘り葉掘りしたりするようなことはせず、やんわりとアドバイスをするに留めましたが、
その子の言葉を聞いて、私は寂しい気持ちになりました。



 この「以前の塾の先生」の指導は、
3つの危険性をはらんでいると私は考えます。


 まず、その先生は「日本語の基本の使い方」を無視して、「奇をてらった『受験のための、小手先の受験テクニック』」を子どもたちに教えているのではないか、という危険性です。
 「わざわざ入試に出すような指示語の内容は、(普通と違って)後にある(と山を張れ)」というように。

 「これ」や「その」に代表される指示語が指す内容は、基本的に「指示語の前」にあります。既に述べられたことを手短に一言で表すために用いるのが、指示語の基本の使い方であり、日本語の基本でもあるからです。
 この「基本」には、理由や理屈、いわゆる「論理」があります。
 そして、文章においては時として指示語の直後に「指す内容」が提示される場合もありますが、その使い方は「応用」と言えるものです。
 「応用」は、「基本」を無視しては成り立ちません。

 難関以上の中学入試問題に出てくる指示語の内容は、一目で分かって書き抜けるような単純明快なものではなく、文脈を深く理解し頭の中で咀嚼しなければ適切に把握することができないものです。
 ときには「後」を考慮することも必要です。
 ですが、まずは「前」を見直して、そこに端緒があればそこから紐解いていくという正攻法の「考え方」を知らないと、正確に文章を理解する「脳力」が養われませんし、いつなんどきにも「物事をまず正面から見つめ、真剣に考える」という真摯な学習姿勢も育っていきません。

 指導者に「言葉を大切に扱う『気持ち』」があれば、自ずと伝え方や教え方に、にじみ出てくるのではないかと私は思います。


 次に、「以前の塾の先生に〜って言われた」と答えたその子の言い方が「機械的」だったことから私が感じたのは、
その先生、もしくはその塾は、子どもたちを「依存体質」に仕立ててしまい、結果として子どもたちの学力の伸びを抑制しているのではないか、という危険性です。

 他人から言われたことを鵜呑みにして丸暗記しているだけでは、学力は伸びません。外から自分の中に入ってきた物事を「一人で沈思黙考」する時間にこそ、大きく学力が伸びます。
 しかし、何かの答えを「誰々からこう言われた」と「無機的」に述べるに留まっているということは、
「教わったことを自分で吟味し、反芻して理解を深める」というプロセスが全く行われていないことを示唆していると言えます。

 塾や先生に、完全に「依存」してしまっているのでしょう。
 この「依存」は、「信頼」とは全く異なるものです。
 そこには、学力の伸長はさることながら、学びにおいて最も大切な「自立」や「自律」、人としての「成長」は存在しません。


 最後に、「小手先のテクニックや、まやかし」に目を奪われ、「自立」も「自律」ないままに大人への道を進んでいくと、
自信が無く、他人を慮る心の弱い、物事の裏を疑うことばかりに満ちた社会人になっていってしまう、という危険性があります。

 たかが指示語、されど指示語。
 学習姿勢の違いは、やがて習慣となり、その人の人格そのものを形作っていきます。
 よって、一つひとつの小さな学びの積み重ねが、人生との向き合い方、ひいては人生そのものを変えることもあり得るのです。



 そんなとき、自身が中学受験を経験していない講師の多くは、
「小学生にそんな難しいことなんか関係ない」
「ここは受験勉強を教えるところであって、学校ではない(から、人間性だの社会性だのどうでもいい)」などと
簡単に話を片付けようとします。

 しかし、現実は逆で、
脳と心がとても柔らかい小学生だからこそ、吸い取り紙のように何でも吸収する力が高いため、
裏技のようなことを教えられたり、邪な立ち居振舞いを見せられたりすると、心にまで影響を受けやすいのです。
 と同時に、体感を伴って学ぶ力も大人より強いため、
脳と体を使って深い学びを体験すれば、将来どの道に進んでも必要となる「学び方」「勉強の仕方」をしっかり身につけることができます。
 一生忘れ得ない、どこへ行っても通用する揺るぎないものを、目に見えない財産として体得することこそが、中学受験の醍醐味なのです。

 そして、その「脳も心も柔らかい小学生」の学びの体感を、
共感に留まらず、

「共有」

できるのは、自身が中学受験を経験している講師ならでは、です。


 「三つ子の魂百まで」こと、
「少年期の学習姿勢墓場まで」。

 私は専門学校の講師を務めていたこともあり、社会人の専門スクールでお教えしていた経験も持ちますが、
これこそが「人生と学び」の現実であると切に感じております。



 中学受験の学習内容は、小学校の学習内容から乖離し、かつ端的に難度の高いものも少なくありません。中学受験が、高校受験や大学受験と異なり、特殊性が高い理由は、ここにもあります。
 そして、そこには過酷とも言える厳しさも潜んでいますが、
中学受験を自ら志す小学生が、「心を整え」「勉強の仕方を身につけ」ていくなかで初めて出会うことのできる、

かけがえのない喜びや、
知性で感じる楽しさも

散りばめられています。


 「教育とは、『教わり育つ』こと」。
 お子様が自分の意志で取り組む学びを、全力でサポートしてまいります。