皆様、こんにちは。
記事連載の途中ですが、今日は別のお題にて失礼いたします。
(連載記事のことも、忘れず考えています(^_^;) というより、最近のものだけではなく、だいぶん前から書きかけ状態の連載記事も複数あるのですが、全部、覚えています(*_*)
ただ、このブログは「徒然なるままに」がモットーなので、気ままに進めさせていただくことをお許しくださいませm(_ _)m)
というわけで、本日のお題。
「中学受験は親の受験」という流説に踊らされてしまっている方々が多い今日この頃ですが、
それは違うと、
私は自身が中学受験を乗り越えた経験から
断言できます。
中学受験は
子どもが主役の受験
です。
すると、
「親が子どもの勉強に介入すれば偏差値が上がるはずだから、そのために親が面倒をみるのだ」
と岩のように揺るぎない佇まいをお見せになる方がいらっしゃいます。
私が見ている限り、
そのような方々の大多数は、
「学歴至上主義」です。
さらに、なぜ「学歴至上主義」なのかと言えば、
「学歴があれば、いい仕事に就いて、一生いい暮らしができるから」
という理由に帰着します。
そこで、
「親が中学受験にてこ入れする」のは
「すべて子どものため
なのだ」
という美談が完全に成立するわけです。
しかし、私の四十数年の人間稼業から得た学びによれば、
その美談は完成する前に、ほぼ100%の確率で破綻します。
(現実問題として、不運にして夭折するようなことがあれば、破綻を来すことはないかもしれませんが。)
まず、何よりも一番の
「想定外」として
「親が子どもの勉強に介入」すると、
子どもは反発したり、やる気の芽をくじかれたり、萎縮したりするため、
成績は停滞するか下降するか、そのどちらかに至る場合が多い
のです。
では、稀にあることですが、
もしも運よくそこで
「成績が上がっ」たら。
偏差値という一側面において、親の満足のいく学歴は手に入るかもしれません。
けれども、その時点で
その子が、自主性は高くない、問題に対する自己解決能力も高くない人間になっている確率が高いと言えます。
なぜなら、
その子は、
自分の意志をもって、自分で考えながら勉強してきたわけではない
ので。
すると、中学高校生活はもとより、
大学進学、続いて就職するときに、
自分でやりたい仕事を選んだり、
入りたい会社への履歴書や面接で、自分の考えを発信したりする力が弱くなることでしょう。
それでも、お得意の「マニュアル詰め込み式のお勉強」でその修羅場も乗り切れるかもしてません。
ところが、そのように優等生然として就職しても、創造性を求められる「やりがいのある仕事」をつかむには及ばないでしょう。
ただし、イエスマンが重用される職場にたどり着ければ、定年まで地位も安泰、収入に困ることにも無縁、日々の生活への悩みも皆無かもしれません。
そして、
熟年期以降は。
人間らしい感情の起伏を味わいながら、笑顔の多い人生を送ってきたという幸福感に浸ることができるのか。
その答えは、まだまだ私の想像の域を出ません。
私が「中学受験は親の受験ではない」と
サラッと当たり前のこととして
言い切る陰には、
一方向からざっくり述べるだけでも
これだけの、
自身の経験に裏打ちされた自分の理論
があります。
では、どのように
「子どもが主役の受験」なのか。
それは
「一人ひとりの子どもが、それぞれに最も偏差値を上げるために必要な、唯一の絶対的な条件」を求めるなら、
「自分が自分で『人』としての『心』を整えること」にある、
というところから始まります。
つまり、
その子の素質をもって可能な限りのところ
まで
目一杯、偏差値を上げよう
と思えばこそ、
その子の自主性が高まることを
最重視しなければならない、
ということです。
ちなみに、
私は「偏差値至上主義者」では
ありません。
念のため。
ただし、使い方によって毒にもなる偏差値というものを、良薬として使いこなすことには賛成です。
となると、その「心」の整え方が問題になりますが、
それはまた別の機会に書こうと思います。