桜梅塾の「社会科講座」スタート!

皆様、こんにちは。

 かねて準備中だった、ストアカサイト内での
桜梅塾「社会科講座」
いよいよスタートします!

 まずは、「地理」の2回コース講座です。

★中学受験の社会 ~地理~「社会科こそ『思考力』」
 ↓
https://www.street-academy.com/myclass/54130

 「社会科講座」には、勤務講師時代からの私のさまざまな思い入れぎゅっと詰まっています。
 大手塾勤務時代、下積み等々を経て、初めて「トップクラス」を担当したときの教科も「中学受験の社会」でした。

 独立後は、ストアカを受付窓口とする講座以外でときどき社会科の授業をすることはあっても、一般公開の講座としてはまだ立ち上げていなかったので、今回のストアカでの開講は一つの節目です。

 講座も回を重ねるごとに成長するので、良い講座へと着実に育てていきたいと考えております💪

勉強は楽しい。しかも……(Myツイッターより転載)

勉強は楽しい。しかも、その楽しさは虹のように七色に変わる。
娯楽のような屈託の無い楽しさのときもあれば、苦しさや辛さを乗り越えて初めて味わえる奥深い楽しさのときもある。
これらの楽しさを全く知らずに生きていこうものなら、人生の喜びの半分以上を放棄しているに等しいと思う。

桜梅塾「夏のキャンペーン」第二弾スタート ~中学受験は「私の受験、僕の受験」。~

皆様、こんにちは。


 学校は夏休みに入り、「『自分で使える時間』が長く取れるシーズン」が始まりました。

 受験生にとっては、
「最大のチャンス到来」。

 とはいえ、「今、中学受験に向かっている6年生全員」が「アクセルを踏み込む」べき季節ではないと、私は考えます。
 状況によっては「ブレーキ」を踏んで留まることも必要であり、それも立派な勇気です。

 そして、私が考える「見極めのライン」は、

この中学受験は、他の誰のものでもない、自分で決めて頑張る『私(僕)の受験』」と

6年生のお子様自分の意志覚悟を決められているかどうか、です。

 もし、6年生の夏になっても
お子様との対話のなかで、

「自分のために、中学受験を目指して頑張る」といった言葉が
お子様自身から出てこないのであれば、

勇気を出してブレーキを踏み、中学受験をしないという選択をすることも大切です。

 なぜなら、
「自分の受験と思えない」ということは
「今は『その時期』ではない」ということを意味する
からです。

 子どもは一人ひとり、「成長するスピード」が違います。
 それは「個性」であり「持ち味」であって、大人の力で潰すことが許されるものではないと、私は考えています。


 「その時期」ではないときに、強制的に無理矢理、受験勉強をさせたら、どうなるか。

 その子が「勉強嫌い」になることは必至でしょう。

 さらには、
中学・高校でも勉強は「嫌々」やり、大学生になっても勉強を遠ざけようとして、

社会人になっても他人からお尻を叩かれながら渋々仕事をするようになる可能性が高まります。

 そうなろうものなら、「無理な中学受験によって背負うダメージ」は、一生ものです。

 創造する楽しさとは、無縁の人生を送ることになってしまうのですから。



 だからこそ、中学受験を「自分の受験」と思えることは、極めて重要だと私は常々思っています
 今。すごくカッコいい理由でなくていいので、でも、はっきりした自分の思いで中学受験を目指している6年生

 一方で、そのような「自分の意志」を確かに持っている6年生は、
本格的な夏が始まったばかりの今はまだ、成績面では苦しくとも、
ここで踏ん張って入試に照準を合わせていくことが可能です。

 なぜなら、「志」があれば
真剣に、必死に勉強に取り組むことができるし、
「勉強の仕方」を上手くしようと工夫を重ねることもできるから。


 そんな「志」ある6年生を、桜梅塾は全力でサポートします❗💖


 「夏のキャンペーン」第二弾として、
現在、Googleでもご案内中!
 ↓
〔桜梅塾 6年生の国語講座〕
※詳細はリンク先のページにてご覧ください。

★挑戦! 中学受験に通じる「国語の文章題」(初回お試しマンツーマン)
https://www.street-academy.com/myclass/33185

★中学受験の国語 ~6年生 4回コース~ 「文学的文章」
https://www.street-academy.com/myclass/51871

★6年生の「中学受験国語」 文章題は「読み」で決まる(単発1対1)https://www.street-academy.com/myclass/35433

3・4・5年生対象の講座へのお申し込みも随時受付中です。ご興味のある方は、まず上記の「初回お試しマンツーマン」のページをご覧ください。


 中学受験は「全人教育」。
 中学受験は「私の受験、僕の受験」。


 桜梅塾では、中学受験生を一人の「人」として尊重し、
勉強、学業への取り組み方を向上させるところから、
地に足のついた成績上昇、入試での合格を目指してまいります💪

 
 講座ページに掲載中の日程以外の日時にも、開講可能な場合がございます。ご質問・お問い合わせもお気軽にお寄せくださいませ。
 ストアカサイト内のメッセージ機能もご利用いただけるほか、以下のフォームからもメッセージを送信していただけます📨
 ↓
https://ws.formzu.net/fgen/S44369859/

 ご覧いただきまして、ありがとうございました!

桜梅塾の国語講座 ~多数のお申し込み・お問い合わせありがとうございます~(現在、満席やキャンセル待ち状態の講座につきまして)

皆様、こんにちは。

 現在、私が主宰する桜梅塾の国語講座ではキャンペーンを行っておりますが、
連日多数のお申し込みやお問い合わせをいただき、ありがとうございます。

 ただ今、夏期講習シーズン直前のため、満席やキャンセル待ちの講座も出ており、
すぐに皆様のご要望にお応えできない状態となっていることをお詫び申し上げます。

 満席・キャンセル待ち状態の各講座につきましては、順次コマの増設等を行ってまいります。
 また、具体的な受講日程のご希望がある方は、
講座の受付窓口であるストアカWebサイトにて「メッセージ機能」をご利用のうえ、日程のご希望をお送りいただけますと、
日程の調整がスムーズに進みます
ので、ぜひご利用くださいませ。

 引き続き鋭意努力してまいりますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

挨拶をしない塾(Myツイッターより転載)

皆様、こんにちは。

 今日は「最近始めたけど、超気まぐれマイペースで、まだ全然活用していないツイッター」を更新、3連打!したので、
その内容をブログにも転載します。

 というのも、前々から私がよく思いを巡らせていたことなので……。

 ブログは「ひとまとまりの記事」としてアップしますが、
ツイッターはそのスタイルゆえに「独り言」としての度合いが強くなるなぁ……と感じます。(私だけかもしれないけど💦)


【以下、Myツイッターより転載】
中学受験生の話。
自分から「挨拶をする子」には表情や雰囲気の明るい子が多い。そして、そういう子たちは勉強に対しても積極的に取り組む場合が多い。
しかし、今どきの首都圏では「挨拶」というものをしない塾が少なからずあるようだ。


かつて、ある職場で「挨拶ができないということは、その人の評価に『プラスゼロ』ではなく『掛けるゼロ』なんだ」と言った人がいた。
人の振り見て我が振り直せ。私ももっと、人の心を開く明るい挨拶ができるようになりたいと思う。


どんなに高尚な学業に励んでも「挨拶ができるようになれない環境」に身を投じるくらいなら、中学受験なんかさっさと止めて、「自然な挨拶ができる自分」でいられる場所に出入りするほうがいい。




【Myツイッター
Twitterアカウント:@OhtakeTomoko
URL:https://twitter.com/OhtakeTomoko

 これからも当分は、「生きているんだか何だか分からない」くらいのペースで継続する予定のツイッターです😅

「添削」ではない添削

皆様、こんにちは。

 話題が諸々あるなか、今日は
受験国語の「添削」
について書くことにします。


 国語学習においてよく使われる、記述問題の「添削」という、この言葉。
 実際に私も以前、ストアカの講座案内のページ内で使用していました。

 ですが、私の添削は、いわゆる文字通りの「添削」ではありません。 

 それなのに「なぜ」添削という言葉をこれまで使ってきたのかというと、

記述問題の解答用紙に「手を加える」作業をイメージしていただくには
「添削」という言葉を便宜上使ったほうが楽に伝わるかなと私が思っていたから
に過ぎません。

(つまり、厳密に意味を照らし合わせて言葉を使うことこそを公には良しとするなら、
この表現は不適切ということになります💧
 よって、我ながら
「国語の講座の案内なのに、これではいまひとつ、しっくりこない」という判断のもと😅、
その文言をこれまでに変えてまいりました。
また、コース講座のご案内などを、近々バージョンアップするつもりでおります💦)

 では、私が国語指導で行っている添削らしきものとは一体何なのかというお話です。

 ズバリそれは、
「ヒント出し」です。
記述問題の答えを、お子様自身の手でより良く書くための。


 記述の答案に赤ペンで「添削」を行い、満点の答案に仕上げて返却することは、さほど難しいことではないと、私は感じています。
 なぜなら、模範解答などを見ながら大人の手で「添削」すれば、その時点で完結してしまう、
完結させられる
からです。
 しかし、そこには子ども自身が考えながら問題解決に向かって取り組むという
子どもの「頭を良くする」プロセスが
入り込む余地が無い

のです。
(実際には、大手塾などの集団授業のクラスで生徒の人数が多いと、この「添削」を丁寧に行うことすら物理的に難しいのが現実ですが。)

 一方、「ヒント出し」をすれば、
1回で終わることはまずありません。
 少なくとももう1回は、「ヒントをもとに『子どもが考えて』書いた答え」を受け取って、講師も動かなければならなくります。

 そして、もしも、そこで受け取った答えが「合格」と言える完成度に達していなかったら、
「再ヒント」を2回目の答案に書き込んで、
「子どもが考えて書き直した、3回目の答案」を待つ
ことになります。

 ……これが私のやり方なので、本当は「添削」とは言えません。


 さらに、一人ひとり個性も持ち味も異なる子どもたちが、それぞれに最良の答案を書けるようになってほしいと思えば、
「同じところ」でつまずいている子が複数いたとしても「つまずき方」がそれぞれ異なっていたら、
「ヒントの出し方」もそれぞれに合わせて変える必要が生じます。
 そして、そこまで「痒いところに手が届く」ヒント出しをするには、普段から一人ひとりの子どもと真剣に向き合い、より良く理解しようと絶えず努めていなければなりません。


 私の「中学受験は全人教育」という哲学や理念を具現化したものの一つが、
この「添削」ではない添削です。

 この能動的な指導を実現し続けるには、講師も労力を要します。
 しかし、子どものたちの未来を思い、
「少しでも、この子たちの人生のために役に立ちたい」と考えれば考えるほど、
子どもたちに「少しでも多く『考える』チャンス」を作りたい、という願いが強くなります。

 「考える力」は、
人生を豊かで実り多いものにする
ための
最強のエンジンですから。

その思いを、親御様にも如実にお伝えするために、今後はそれが「添削」ではないことを、正直に述べていきたいと思います。

冗談でも言ってほしくない言葉

皆様、こんにちは。

 今日は、題名に掲げている「とある言葉」について、「サラッと」書かせていただきます。

 実際のところ、この言葉について私が思いを巡らせていることは、深く、なおかつ多岐に渡りるので、1回きりで思いの丈をすべて文字に表すことはできません。
 というより、1回きりのブログ記事で終わるような軽い問題でもなく、今後長きに渡って真剣に取り組まなければならない、根深い問題がそこには潜んでいると、私は考えています。


 では、その言葉とはどのようなものかと申しますと、

「子どもの将来」を「お金で買う」

という言葉です。


(ちなみに私は、炎上覚悟でこの記事を書いています。
 もっとも、このマイナーなブログですから、炎上するほどの大きな注目を集めることはないと思いますが、
世間でもてはやされ気味のネタに異論を唱えたりすると、
揚げ足をとり、目を皿のようにしてアラを探し、全てを洗い出し、吊り上げたがる方々も世の中にはいらっしゃることは、
残念ながら事実なので……覚悟だけはしっかり決めています。)


 誰かの「人生」に直接関わる問題というのは極めてデリケートなものであり、
たとえ、そこに金銭的なものが無関係でなかったとしても、そういう表現を使うものではないと、私は考えています。

 ましてや、未来に大きな可能性を秘めている「子ども」に対してなら、なおさらです。



 子どもの将来をお金で買う。

この「言葉」
すなわち「『言』の『葉』」には、
一人の人間としての子どもに対するリスペクトが微塵も感じられない。

神は細部に宿る、と云います。

他人(ひと)へ、子どもへの優しさに満ち、愛情に溢れた人において、そのような言葉が口をついて出てくるようなところは、まかり間違っても想像できません。

 そして、一人の人間が「お金」で別個の人間の「将来」を
買える 
と考えているところに、
謙虚さの影すら、うかがえないと思うのは私だけでしょうか。


 子どもは独立した人格を持った一人の人間です。それは忘れてはならないでしょう。
 ましてや、「教育」と名の付く職に携わっているのであれば、
「人に対するリスペクト」はいつなんどきにも肝に銘じて仕事にあたることが「基本のき」だと私は思っています。

★子どもは独立した人格を持っている……
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www.bardetomoko.com


 また、私のこの心の叫びは、大人としての立場からのみ発せられたものではありません。

 かつて、中学受験生として自分のために闘った、「当時の私」の切実な叫びでもあります。

 あの、11歳、12歳だった頃の私が、

「子どもの将来をお金で買う」

という言葉に触れていたら、と思うと。

耳にしたとしても、目にしたとしても、
深く傷ついていたと思います。

 現に今、巷に存在するこの言葉。

子どもたちは、どう感じ、どう捉え、どう受け止めるのか。

何も考えずに、鵜呑みにする子もいるでしょうし、
お腹の中に疑問を抱える子もいるでしょう。
もちろん、かつての私と同様に、心に傷を負う子もいるでしょう。

 それは、「将来」の「日本」に傷を負わせることに等しいかもしれません。